今も生かせる「百万一心」

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  • 戦国武将の毛利元就といえば、息子たち3人に対しての教訓である「三本の矢」が有名ですが、実は、もう一つの逸話があります。それが「百万一心」です。

    百の字の一画を省いて「一日」、万の字を書き崩して「一力」とすると、縦に書けば「一日一力一心」と読めるというものです。一日一日、力を合わせ、心を一つにしていこう。という意味です。城の修復工事が難航した際、当時の慣習に従い人柱を立てることを主張する家臣たちに、「百万一心」と刻ませた石を代わりに立てて人柱の代わりにしたというのです。

    もともと毛利氏は中国地方の山間部に拠点を持つ国人領主に過ぎませんでした。大内家と尼子家という二大勢力に挟まれ、常に存亡の危機に立たされていました。規模が小さく、人も少ない中で一致団結することこそが生き残るうえでの絶対条件だったのでしょう。

    これは、現代の中小企業の在り方でとても参考になるものです。資本や人的資源で圧倒的な大手の進出に対し、小さいながらも一致団結して自分の長所を磨き上げることで生き残りを図る戦術です。

    人柱という形での犠牲を回避し、団結を重視した毛利家は徐々に勢力を拡大します。現在の広島県にあたる安芸の国人領主たちをまとめ、次男・三男に有力国人の家を継がせることで勢力を拡大しました。そしてついには厳島の戦いで大内氏の重臣陶晴賢を討ち取り、ついには大内家・尼子家を滅ぼして中国地方の覇者へとのし上がりました。

    大企業となった毛利家は徐々に一族の結束が緩みます。関ヶ原の戦いの際には毛利本家と次男の吉川家・三男の小早川家が結束できず、戦後処理で大幅な領土削減をされてしまいました。

    大きくなっても創業当初の志を守ることはとても難しい。まさに、初心忘るべからずではないでしょうか。

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    和光同塵って知ってますか

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  • 和光同塵という言葉があります。自分の才能や学徳を隠し、俗世間に混じって目立たないように生活する事です。

    皆さんの中にもこのような方がいらっしゃるかもしれませんね。本当は凄いのに隠してるだけの人が沢山いるんでしょうね。
    わざと出来ないふりをしてすぐに出来る仕事を何日もかけてやっているのかもしれませんね。

    仮に天才がいたとしましょう。彼は和光同塵をして会社員をしていました。彼が本気を出せばすぐに解決できるのに、黙っていたのです。
    それはいい事なのでしょうか。天才がばれたら期待され過ぎて困るから黙っていたというのでしょう。
    でもそれは間違いなのです。天才だからと言って万能ではありません。できる事が多いかもしれませんが出来ないこともあるのです。
    会社は出来る事を買ってくれているんですから、彼が黙っていることは裏切り行為にあたります。
    その天才が苦手な事で雇われたらどうでしょう。本当に出来ないから真剣にやらざるを得ないでしょう。
    しかし実績があまりに悪ければクビになることもあるでしょう。クビにされた彼に言える事がありますか。

    それは単なる思い上がりでしかないのです。出来ないことは克服すべきですし、できる事は精いっぱいやることが仕事なのです。
    会社は一人で成り立つものではありません。個人ではなく組織として個人の力を使っているのです。
    その中で一人楽をすることは他の人に迷惑をかけているだけだと思いませんか。
    天才がすぐに意見していたら会社が助かり社員全員が助かったのかもしれないのです。

    これから困難な問題に直面した時に考えてみてください。自分は本気でやっているのかと。
    もし少しでも疑問があるのなら考えなおして下さい。同僚に迷惑をかけてはいけないでしょう。
    あなたは天才ではないかもしれませんがもっとできるのかもしれませんよね。

    話しは変わりますが子供が遊んでいて凄い発見をしたとしましょう。でも子供にはその発見の事は理解できないでしょう。
    発見の意味を知るまでに何年かかるか分かりません。それまでその大発見はねむらせるのですか。
    誰かそれを見た人が気づけば発見は10年以上早く活かされることになります。
    なんでもそうなんですね。何もしなければ無意味なんです。

    会社では人の意見も聞かなければいけません。同時に子供の発見を見過ごしてはいけません。
    認めるべきものはちゃんと認めてしかるべきなのです。
    その事が未来を変えていくことになるかもしれないのです。

    誰だって可能性を持っているんです。それを存分に使いましょう。それでみんなが幸福になれるなら最高じゃないですか。
    そして周りを認めてあげましょう。自分にないものを持っている人には敬意を払いましょう。
    そうすれば自分も認めてもらえるようになるでしょう。
    協力するってそういう事から始まるのですよね。
    共同作業が会社ですから、同じことです。

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    河海は細流を択ばず

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  • 例年、大型連休明けに話題となるのが五月病です。
    新年度がはじまる4月にはやる気に満ちていた新入社員や新入学生が、環境不適応などから精神的に不安定な状態となることをさす言葉です。

    近年は、五月病どころか入社して間もないのにやめてしまう新入社員が現れ、話題となることがあります。
    理由を聞いてみると社風が合わない、自分のやりたいことができない、思っていた会社と違ったなど自分なりの「辞める理由」があるようです。

    今から2000年以上前の秦の時代に宰相まで上り詰めた李斯の伝記に「河海は細流を択ばず、故に能く其の深きを就す」という言葉が書かれていました。
    直訳すると、黄河や渤海はたとえ小さな流れであっても捨てることがない。
    だからこそ、あれほどの深さになる」となります。
    大人物はどのような相手とも差別なく付き合い、見分を広げることができるという意味にもなります。

    さて、これを現代に置き換えてみましょう。
    大学在学中から熱心に企業を調べ、自分がやりたいことをできる会社を探し、そこを目指して「就活」を頑張ってきた人にとって、やりたいことができないという環境は耐え難いものかもしれません。
    しかし、自分の意に沿わないことでもチャレンジしていけばそのことは成長の糧となるかもしれないのです。
    自分の気に入った、自分の価値観と合致するものだけを選択しすぎると、自分自身の成長を阻害することにもなりかねません。
    自分とあわない流れもブレンドしていくことで、自分の器が大河や大海に匹敵するほど大きくなります。
    食わず嫌いをせず、どんな細流でも貪欲に吸収してみてはいかがでしょうか。

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    岡目八目の論理を仕事の思考法に活かす

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  •  囲碁や将棋の世界には「岡目八目」という言葉があり、対局している当事者よりも観戦者のほうが場の状況を冷静に判断できるといわれていますよね。勝負事の最中は目の前のことに熱中しやすいですから、これは言い得て妙な表現なのかもしれません。

     私もボードゲームをしている時は、ついつい熱くなってしまうタイプです。熱くなって冷静にしていたらやらないようなこともやってしまうのですから、勝負の熱というのは人を興奮させる何かがあるのだと思います。

     このことを仕事に照らし合わせてみた時、プロジェクトや人材育成を負かされたらついつい意気込み過ぎてしまうのと同じなのかもしれません。責任をともなう大きな仕事はどうしても近視眼的になりやすく、その仕事以外のことが見えなくなってしまいがちです。

     もしもそうなって仕事が上手くいかないようなら、岡目八目でこの仕事とは関係ない社内の人にアドバイスをもらうのが良いということでしょう。冷静で客観的な意見は、ぐうの音も出ないくらい正しいことが少なくありません。仮にちょっと考え方を変えればわかるようなことだったとしても、当事者として仕事に携わっているとなぜか見えてなかったりするんですよね。

     それは私がアドバイスをする立場にまわった時も同様で、熱くなっている同僚がいたらそれを落ち着かせて正しい方向へ導いてあげることが大事だと思います。ですから「当事者より傍観者が正しいかもしれない」と、仕事ではその思考法を忘れないようにしたいものですね。

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    世界中の人々が数字に踊らされる話

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  • 2016年6月6日のように666が3つ並ぶ日はキリスト教徒社会においては「悪魔の日」と言われています。西側諸国において666が忌み嫌われる数字なのは、新約聖書のヨハネの黙示録に由来しています。キリスト教徒の多くが666の訪れに対して、教会で平安であることの祈りをささげる一方で、中国ではこれを大歓迎しています。

    中国では6が大吉の良い数字で、それが3つも並ぶのは大歓迎であるのです。中国人にとって良いと言われる数字は8であることは知られていますが、6も良い数字であることはあまり知られていません。中国語で「中」「6」は真ん中であるという意味で、万事めでたく順調であると言う意味を持ち、これを使用した「六六大順」という有名なことわざが存在します。

    アジアニュースサイトによればこれを証明するように、シンガポールでは2006年6月6日に310ものカップルが結婚式を挙げたといいます。これは一日平均の50組の6倍に相当する数字です。また産婦人科ではこの日に生まれるようにわざわざ帝王切開をして子供を産んだ数も平日の1.7倍になったということです。いかに6が付く日が良い数字であるかを示すエピソードです。

    西洋とアジアではこんなにも数字に対して考え方が異なりますから、13日の金曜日ももうそれほど気にしなくていいのではないかという気がしてきます。数字は0から9までしかありません。したがってどのような理由でも付けることができ、4とか9などの数字は縁起が悪いなどと考えることは、しなくていいような気がしてきましたがいかがでしょうか。

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    「人は見た目が9割」…ほんと?

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  • 」新しく入ったバイトのおじさんに偉そうに接していたら、実は視察に来たCEOだった」というドッキリ、皆さんも一度はご覧になったことがあるのではないでしょうか?

    このとき、偉そうに接していた先輩社員は、「バイト」「おじさん」ということだけをもって、知らず知らずのうちに「あいつはデキない奴」というレッテルを貼ってしまいと、結果的に人事評価では大きなペナルティを科されてしまうという不幸な運命を受けることになってしまいます。

    逆に、「困っていたホームレスを助けてあげたら、実は大資産家」などといった、良い結果を招いたというエピソードも耳にしたことがありますが、果たして皆さんは、人をどの程度見た目で判断してしまっているでしょうか?

    営業などにおいても、最初厳しかった取引先の経理担当者が、めげずに接していると実は高く評価してくれていたり、あるいはその逆もしかりだと思います。

    現に私が今でも仲良くしている親友は、大学時代、初対面は最悪の奴でした。

    『人は見た目が9割』という著者がありますが、おそらく見た目だけで判断してしまうことで、私たちは多くのチャンスを逃してしまっているのだと思います。

    今後人と出会うときは、「あ、この人イヤだな」と思ったときこそが、実は将来の大きなチャンスが転がっているのかもしれません。見た目だけでなく、内面や経歴、話し方など、それ以外の部分から、真の「人を見抜く力」を身に付けることが、私たちには求められているのかもしれません。

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    人事を尽くして天命を待つような仕事をすれば後悔しにくい

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  •  仕事をしていて「人事を尽くして天命を待つ」という境地にたどりつけば、後悔はしにくいでしょう。

     仕事をしていて一番後悔するのは「やるべきことがあったのにそれをやらなかった」時ではないでしょうか?やろうとしたのにできなかったのならまだいくらか弁解の余地がありますが、そうではなく弱気や怠け心によってやらなかったら、後で激しく悔やむのは目に見えていますよね。

     できるかできないかはやってみないとわからないですが、やらなければ絶対にできません。ですからまず結果を恐れることなくやろうとすることが大事ですし、そうすることで「人事を尽くして天命を待つ」の境地にたどりつけます。

     仕事では、自分のやれることが決まっています。それをやり切ったら、後はもう流れに任せるより他ありません。それは上司やクライアントなどの他人が命運を握っていることもありますし、本当に運任せな場合もあるでしょう。ただ、いずれにせよ仕事に対してやれることをやり切っていったら、むやみやたらと後悔はしないですよね。たとえ思い通りの結果にならなかったとしても、全力で取り組んだのだからしょうがないと早々に心を切り替えられます。

     仕事に対して全力を尽くすことの意義は大きく、常日頃から心がけていないといけませんよね。もうこれ以上はやりようがないというぐらいフルパワーで仕事に臨めば、後は結果を待つばかりです。そのぐらいエネルギッシュに働くことが、成功への道だと思っています。

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    求めれば与えられるという意識

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  • みなさんは仕事をするうえで、どういうものが必要だと考えているでしょうか。
    良き仲間、資産、人脈、健康、さまざまなものが私たちは必要だと感じ、また足りない足りないと思ってしまうのではないでしょうか。

    新約聖書の中に、「求めなさい、そうすれば与えられる」という言葉があります。
    私は、教会には通っていませんが、こうした言葉には胸打たれるものがあることは確かです。

    私は、求めても求めてもそれが得られず、拗ねていた時期がありました。
    そうした時期に限って、くだらない人との繋がりができ、面倒に巻き込まれたり、お金の面でも苦労したものです。

    求めるに際し、与えられるに違いないという確信があるということは大切です。
    そうした確信なしに、無いことばかりに着目し、文句を言ってばかりでは前に進めないのです。

    ジャパネットたかたが、あそこまで大きくなったのは、社長が、できる、という確信を持って何事にも取り組んだためだそうです。

    与えられる、できる、大丈夫だ、そうした前向きな言葉や思いを持って、はじめて求めるということが効力を発揮するのかもしれません。

    みなさんは何を求めているでしょうか。何があれば、みなさんの業務はさらに躍進し、素晴らしい成果を出すことができるでしょうか。

    可能不可能を吟味する前に、まずは夢見てみましょう。そして、与えられると信じて求めてみてはいかがでしょうか。

    変化なき組織は腐敗していきます。一緒に成長していこうではありませんか。

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    マクドとバナナ 関西人はインターナショナル?!

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  • おなじみのハンバーガーチェーン店であるマクドナルドの呼び方は、地域によってさまざまあるかとは思いますが、最も意見の別れるところが、「マック」なのか「マクド」なのかという二択に落ち着くのではないでしょうか。

    実際、関東方面や地方都市においては「マック」派が主流であるものの、関西周辺地域となると途端に「マクド」と呼ぶ人々が圧倒的に多数派となります。

    世界に目を向けてみても、フランスやフィリピンでは「マクド」、カナダでは「メクド」だそうで、関西の方に近い発音であることが分かります。

    このことから、関西の人の感覚や感性が、より世界基準に近しいものがあり、インターナショナルであると言う人もいらっしゃるようです。

    もちろんマクドナルドだけではありません。

    たとえば、「バナナ」と発音するときにも、関西人のイントネーションは、2つ目の「ナ」を強調するので、いわゆる英語のバナナの発音と同じようなニュアンスになります。

    ところが標準語となると、最初の「バ」に重きを置くことになり、確かに世界では通じにくいことになるかもしれません。

    よく海外に行ったときにも、関西の人たちは、関西弁でもって、おおよそすべてが日本語であるのにも関わらず、コミュニケーションを試み、見事に通じているといったこともあるようです。

    おそらく、関西人はもともと商人(あきんど)の基質を遺伝子レベルで受け継いでいるため、そういった能力に長けていると推測できます。

    関西弁が国際的な言語であるという話には、それなりの根拠があるような気がしています。

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    「全然大丈夫」「やばい美味しい」は誤用ではありません

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  • 「全然」という言葉のあとには、必ずと言って良いほど、「~ない」の形で全否定を表す文法が、とりわけ第二次世界大戦後の現代語でもっとも一般的な用法とされてきました。これは、日本語の専門家であったり、研究をしている方でなくとも、ごく普通の感覚でも当たり前のように思えることですが、最近は若者を中心として「全然大丈夫」などといった、肯定的な意味で使われることが増えてきていることが注目に値します。
    夏目漱石も「全然」を否定を伴わず使っていた
    この事自体を間違った日本語であると指摘する声があることも事実ですが、じつは昔は「全然+肯定」の表現が普通に使われていたようです。
    明治から昭和戦前にかけて、「全然」は否定にも肯定にも用いられてきたことがあり、あの夏目漱石でさえも「全然」を否定を伴わず使っていたという文献が残っているのです。

    また、「やばい」という言葉も江戸時代の作家十返舎一九の作品にも見られるように、当時から当たり前のように使われていたものと思われます。当時は、いわゆる「危険である、危ない」という意味で使用がされていたようですが、最近の若者は「とても」のような意味合いでむしろ肯定的な意味で使う人が少なくありません。

    とある老舗の飲食店で、若者が「やばい、やばい」と連呼しているので、食材に不備や問題があったのかと心配になった店主が、尋ねてみたところ、「やばいくらい美味しい」ということであったとの笑い話もあるほどです。

    日本語だけに限らず言語のすべてに言えることですが、時代とともに用法が変わっていくことは当然の帰結であり、だからこそ言語が生き物であると言われる由縁になっているのではないかと思いました。

    今後は、間違いを指摘する前には、ググってみようと思いました。

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    マナーは人の為だけではないのですね

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  • 一昨日の朝家を出る時に近所の人がゴミ出しをしているのを見かけました。挨拶をすると笑顔で返してくれました。
    ふと見ると袋の色が指定日のものと違うのに気が付きました。
    「今日はその可燃物の日じゃありませんよ。」というと、「可燃物の袋がないから違う色にしただけ。持って行ってくれるからいいのよ。」と言われました。
    余計なお世話だったかなと思い会社に向かいましたが、色が違うと収集の人が困るのではと感じていました。

    翌日、昨日の人が家の前で何かしていました。挨拶をすると、昨日とは全く違う顔つきでした。
    思議に思って聞いてみると犬の糞があったらしく掃除していたんだそうです。
    「全くマナーがなってないわよね。自分の犬ならちゃんと処理しなさいよね。」とかなりのご立腹の様子でした。
    「大変でしたね。」と声をかけてその場を離れました。

    最近犬の糞なんて見た事が無かったので、誰かのイタズラなんだろうなと思いました。
    イタズラされるなんてなんか恨みでも買っちゃったのかなと思った時、ゴミの事を思い出しました。
    昨日はマナー違反してた人が、今日はやりかえされて怒ってるんだと思うと少し可笑しく思えました。

    でも考えてみれば因果応報かもしれませんよね。
    たかだかゴミ袋の色と言っても、誰かが凄い迷惑をかけられてる事もあるかもしれません。
    結局マナーの悪い人はそれなりに悪いマナーに苦しめられる事になるのでしょう。

    マナーは人の為だけでなく、自分の為にも大切なんだなと思いました。
    これからは自分だったらどう思うだろうと考えてマナーを守っていきたいと思います。

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    昭和58年の国語辞典を見て驚いたこと。

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  • 私的、公的を問わず、「介護」に携わっている方は、益々増えていることと思います。

    私が親の介護で悩んでいた時に、ケアマネジャーさんが、昭和58年の国語辞典を私に手渡し、「介護という言葉の意味を調べてみてください。」とおっしゃいました。

    すると、介護という単語は載っていなかったのです。ケアマネジャーさんのくださったプリントを引用しますと、次のように書いてありました。

    介護という単語が法令上で確認されるのは、1892年の陸軍軍人向けの、恩給の給付基準としての概念だったようです。

    しかしその後、一般的な言葉として使われることはなく、介護用品メーカーであるフットマーク株式会社により、「世話をする側とされる側のお互いの気持ちの交流を考えて『介助』と『看護』を組み合わせて作った造語」として昭和59年に商標登録され、一気に広まることになったと言われています。

    つまり昭和58年には介護という概念がなかったというのです。ケアマネジャーさんは、続けてこう話しました。

    「そんな新しく生まれた分野に携われば、悩むのは当然です。正解も不正解もありません。今、あなたが一生懸命に考えて介護したことが、あなたにとっての正解なのです。」

    「あなたの介護が、介護という新しい分野の歴史を作る作業なのです。思い切り悩んでください。思い切り悔やんでください。そして、介護の世界に後を追って入ってくる後輩達に教えてあげてください。一緒に歴史を作ろうと。」

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    父の日にはバラを

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  • 6月の第3週の日曜日は「父の日」です。それまでにも父の日は存在していましたが、一般的な知名度が低く、1966年アメリカの第36代大統領ジョンソンが父の日の存在を賞賛する告示を行ったことで広く知れ渡ったと言われています。このとき6月の第3日曜日を父の日と正式に定め、1972年に国の記念日になりました。

    日本で一般的な行事として知れ渡ったのは1980年代初頭くらいからでしょうか。デパートなどが、商品の販売促進の一環として父の日をイベント化し、宣伝をしたことが認知度を高めたと考えられています。

    現在も母の日と比べて一般的といえないこの父の日に贈るものをご存知でしょうか。母の日にはカーネーションを贈ることが一般的ですが、では父の日は何でしょう。それはバラの花です。バラの花の色は母の日のカーネーションと同様、健在の場合は赤を、亡くなっている場合は白を贈ると言われています。

    黄色を贈るのではないかと思われている方もおられるかもしれません。日本で1981年に設立された「日本ファーザーズ・デイ委員会」が主催している「父の日黄色いリボンキャンペーン」の存在があります。この中では、幸せや幸福の象徴とされる黄色を父の日のイメージカラーとしていますので、その印象の強さから、父の日には黄色いバラと印象付けられていると思います。

    実際にはバラであれば特に色は関係ないことが多く、バラを贈る贈られるということが、父の存在を改めて考えることに繋がると考えられますから、「父の日にはバラ」と、これだけを覚えておけばいいのではないでしょうか。

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    「3」という数字に見る、面白い共通エピソード

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  • 「三度目の正直」であったり、「仏の顔も三度まで」「石の上にも三年」といったことわざに代表されるように、普段あまり意識していないものの、じつは「3」という数字にまつわるエピソードを言い得た格言や歴史的出来事がたくさんあることに気付かされます。

    たとえば、「三本の矢の教え」は、毛利元就が、三人の息子に対して、矢は1本では簡単に折れるけれど、3本束ねると折ろうとしても簡単には折れないので、その矢と同じように三人で結束することが大事であると伝えたといわれる逸話になります。

    また、「三顧の礼(さんこのれい)」は、故事成語のひとつで、目上の人が格下の者の許に三度も出向いてお願いをすることで、三国志の時代の中国で、劉備が諸葛亮を迎える際に三度訪ねたとする故事に由来していると言われています。

    さらに、「三献茶」という石田三成に関するエピソードも興味深いものがあり、「武将感状記」という書物に記されています。少年時代の石田三成が、のちに主君となる人物であった豊臣秀吉との出会いを果たしたときの出来事です。

    現在の滋賀県は長浜市の城主となった豊臣秀吉は、ある日領内で鷹狩をしていたときに、喉が渇いたため、近くの寺に立ち寄ってお茶を頼んだのでした。そのとき対応した寺の小姓が石田三成であり、一杯目は大きな茶碗いっぱいのぬるめのお茶を、もう一杯目のお茶は一杯目よりやや小ぶりな茶碗に少し熱いお茶を半分ほど、三杯目に差し出したお茶は小ぶりの茶碗に熱く点てたものでした。

    秀吉は、石田三成が欲しているものを瞬時に察知して対応したところに感動し、そのまま三成を城に連れ帰り家臣にしたという逸話です。

    共通点として「3」がポイントになるこれらの話から、迷ったとき、困ったときには「3」を意識してみるというのも、良いかもしれません。ただし、「三時のおやつ」はほどほどにしたいものです。

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    人に勝つより自分に勝て

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  • これは中国の老子の教えの中の一つです。今の世の中は激しい競争社会で現代人は強いストレスの中で生活しています。

    人と競争することによって自らを高めていくことは大事なことです。しかし百戦錬磨の人などほとんどいません。
    多くの人が敗北して挫折したり、ときにはそれによって自分の目標を絶たれることもあるでしょう。

    しかしそこで老子は説いています。己の私利私欲に打ち勝つ者こそが本当の強者であると。
    身近な例でいうとメジャーリーグのイチロー選手が真っ先に思い浮かびます。

    彼こそ自分に打ち勝つ強い心を持った人、つまり最高の自己管理を実現している人物の代表でしょう。

    人間は放っておくと楽なほう、楽なほうへ流れていく生き物だそうです。
    その行きつく先がどのようなものかは想像に難くないでしょう。

    ですから大事なことは理性を持つことです。欲望のままに行動するのは野生の動物と同じです。
    人間には理性というものが備わっています。

    人を押しのけて自分が勝利をつかみたい、、、そのような考えは少なからぬ人が持っていると思います。
    そのような欲求を否定するつもりはありません。人間には適度な欲が不可欠だからです。

    しかしそれらが度を越えると堕落した人生、または人に疎まれ孤独に生きる人生になりかねません。

    別の視点で考えてみて、まずは自分自身に勝つことを目指してみましょう。

    日常生活の中で自分なりに目標をもつ。ここで大事なことはそれを紙に書き出してみることです。
    一日でも一週間単位でもいいでしょう。そしてあとから見てみて何割くらいクリアできたか顧みる。

    全部出来ていなくても構いません、8割くらいを目標に!100点満点では疲れてしまい続きません。
    大事なのはその割合を維持してゆくこと。
    そしてそれを習慣づけること。

    この習慣を続けていけば、あなたの人生は必ずや豊かになってゆくことでしょう。

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    いわゆる先手必勝とはどういう事

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  • 囲碁や将棋では先手を取る事が大切とされ、勝負の勝ちに繋がるためお互いにしのぎを削り取り合いします。

    先手とは一体どのような意味を持つのでしょうか。

    先手とは漠然と人より先に何かをするという事なのですが、本来は対戦相手が困る手を打ったり指したりすると、相手は不利になるので、どうしても守りの手を打たざるを得ません。そこで自分は有利な手を打ったり指したりする事が出来るという理屈なのです。

    先手に対して後手という言葉が有りますが、世間での不祥事対応に良く後手ごてに回るという事が言われます。

    後手ごてに回れば、マスコミの避難の的になりますし、言い訳ばかりしていると見做され、事が大きくなり勝ちです。

    では先手を打つとはどのような事をすればよいのでしょうか。まず、自分の至らない点や弱みを知り、直しておく事だと思います。そうしておかないと、人からそれらを指摘され弁解や言い訳をしなければなりません。

    いつも自分の事を考えて隙の無いようにしておきます。

    かの豊臣秀吉が信長に認められたのは、草履を懐で温めていたからで先手を打ったからに他なりません。相手がこうあってほしいと思う事を読み取り、先回りする事が先手必勝に繋がり良い評価を得られる事になります。

    仕事も段取り良く先の事を考えて行っていると、評価が上がりますしミスも少ないと思います。

    私もなるべくミスをしないよう、また、先の事を考えた仕事をして先手必勝をモットーにしていきたいと思います。

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    「過ぎたるは猶及ばざるが如し」につきまして一言。

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  • 皆さんは格言の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉をご存知だと思いますが、私はどのような意味合いなのか良く分りませんでした。

    「過ぎたるは」とは、多い事はという意味で、「及ばざる」は少ない事はという意味だそうです。「如し」は同じことという意味でこの格言の後には困った事だと続くのです。

    つまり、多すぎる事は少なすぎる事と同じように困ったことであるという意味になるそうです。

    日常生活では、食べすぎて満腹になり肥満体になっている人が多く、生活習慣病になり健康を害します。かといって、ダイエットをやりすぎても栄養が不足しこれも健康を損なってしまいます。栄養に偏らないバランスのとれた食事を規則正しく摂る事が健康を維持出来るのです。

    運動でも過度の運動は体を痛め、筋肉や関節・スジを痛めることになります。スポーツ選手に良くいます。反対に運動をしませんと、様々な体の不具合が生じます。適当な運動を続ける事が大切となるのです。

    仕事でも同じ事が考えられます。大量の仕事を一人に任せたり、また、自分でもしたりすることは、過度の残業を生み、有給休暇を取ることも出来ません。その結果は、健康を害したり自殺をしたりという結果になります。また、仕事がなさ過ぎるのも困りものです。人は適量の仕事を持つ事が理想です。

    何でも極端はいけませんし、ほどほどという適当さを知らねばなりません。難しい事ですが私はこれからも実践していきたいと思います。

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    木はそれぞれの伸び方をしています。

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  • 私は毎朝公園を散歩しています。朝の公園はとても気持ちがいいものです。歩きながらたくさん生えている木を見ると、たまに他の木と違う方向に枝を伸ばしている木があります。普通は太陽の方向に向かって枝が伸びるはずなのに一本だけ反対に枝が伸びているのです。

    木が自分で方向を変えている訳ではなく、何かがあってそうなったんだなとは分かりますが、そんな木を見ていると自分に似ていると感じてしまいます。わざと反対側に枝を伸ばして目立ってやろうとしているように感じるんです。私も目立ちたいとか、もてたいとかの為に似たような事をする時があるからです。

    木は自分を守るために枝の方向を変えたんでしょう。それは木が本来持つ本能のようなもので、自然な成り行きだと思います。それに比べて私は自分をわざと曲げて、良く見せようとしているんだなと感じさせられてしまいました。本当の自分じゃないのに評価されたりもてたりしても、結局は後で恥をかく事になるんですよね。木は葉が日陰に入らないようにしているのに、私は日陰を作って誰かの邪魔をしているのかも知れません。

    見栄を張ったりして一時的にいい事があったとしても、結局期待を裏切ったりして相手に迷惑をかけてしまいます。私はあの木のように自分を偽らずに、自然な流れで枝を伸ばしていきたいと思います。それが私の為であり、周りの人達を裏切らないことに繋がるんだと、公園の木に教えてもらったんですね。木を見て森を見ずに、自分を見てみました。

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    失敗の前には油断がある

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  • ドイツの諺に「傲慢は転落の前に来る」という物が有ります。
    驕り傲慢になると、その後に失敗や滅びが待っているという事を言っている諺です。

    日本で似た使われ方をする諺の例を挙げると「驕る平家は久しからず」が近いでしょうか。

    要は、油断による失敗をしない為の教訓です。

    人は上手く行っている時や、何か成功を収めた時などは、どうしてもその物事に気が囚われがちになります。
    そして、平時や何事も起きていない時には気が緩むものです。

    しかし、それらの状態や物事とは真逆である失敗や事故の前には、大抵は何かしらの油断や不注意があるものです。
    それが重大な事態や失敗を招き、取り返しのつかない事にまで発展する事があります。

    成功や平穏な時間は人にとって嬉しく大切な物ですが、失敗や事故はそれを帳消しにして、悪ければマイナスにまでしまう事がままある訳です。

    人が何かをする以上、失敗や事故をゼロにする事は難しいですが、それでも日頃の気の持ちようや、成功した時や後も気を緩めず油断しない事を心がけていれば、その転落に繋がる頻度は減り、未然に防げる事も増えます。

    これは仕事の中だけでは無く、気が緩みがちな日常生活の中でも、レジャーなどで遊びに行く時でも通ずる心構えでしょう。

    傲慢や油断は失敗の前に来るものとして注意し、それを自身に感じた時は気を引き締め、友人や同僚に感じた時は注意を促してあげる事が大事なのだと思います。

    そうすれば、自分も周りの者も平穏で充実した生活を送れるのではないでしょうか。

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    正しい日本語

  • 追加
  • 近年、日本語のあり方も随分変わってきております。
    若者の話している言葉を聞いて、日本語の乱れを感じる人もいるのではないでしょうか。
    では私達は日頃正しい日本語が使えているのでしょうか。

    例えば私は、「全然大丈夫」などという言葉を使ってしまうことがあります。これは正しい日本語と言えるのでしょうか。

    「全然」とは「否定的な場合に用いる言葉である」と言われています。そのため「全然~ない」の形になる表現が正しいとされることが多いようです。その理屈で考えると、「全然大丈夫」は間違った使い方だといえるでしょう。

    しかし、「全然」は明治時代や大正時代には「全て」といった意味を持つ言葉として、肯定的な表現にも使用されていました。実際、夏目漱石の著書「坊っちゃん」にも「全然+肯定的」という形の表現が出てきています。本来はそれが正しい使い方だったのです。

    言葉というものは、時代や状況によって様々な形に変化するものです。今正しいとされているものも、数十年後には間違った表現とされているかも知れません。

    他人の使う言葉に違和感を覚える場面はこれからもあると思います。しかしそんな時は嫌悪感を抱いたり否定したりせず、「今はそんな風に使われるのか。面白いな。」と、受け入れていきたいものです。

    言葉に限らず、社会のルールや会社のあり方も時代に合わせて変化していくものです。そして、変化に柔軟に対応できたものだけが生き残っていくのではないでしょうか。

    私も会社のルールをもう一度よく確認・徹底していくとともに、本当に必要なルールなのか、今の時代に適しているのか、そんなところまで考えて柔軟なものの見方ができるように心掛けていきたいと思います。

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