心は蔵のようなものである。
朝礼ネタ5168 2022/10/03 心理・メンタル自己啓発コミュニケーション仏教に関連した話で、唯識論では、心は蔵であると解いています。蔵の中にはこれまでに考えたことや行いが全て詰まっていると言われています。そして何かしらの出来事に遭遇した時に蔵の中から思いや考えが出てきます。
出来事は大きな出来事でなくて、例えば朝起きて雨が降っているのを見たとか、ゴミだしの際にお隣の人とすれ違うとかです。その時に、「あー雨か、濡れるし嫌だな。」と思うか「お花に恵みの雨だな」と思うかは、自分の心次第です。同様にお隣さんに「おはようございます」と気持ちよく言えるかどうかも自分の心次第なのです。
目で見た雨という天気や、お隣さんの姿が心という蔵にいったん入ってから思いや考えとして出ていくのです。心で思うだけにしておけば、声に出して話さなければわからないだろう、と考えることもあると思いますが、心の蔵の材料は、言葉だけにとどまらなくて、振る舞いや態度、表情にも現れます。
仏教用語では、貪瞋癡(とんじんち)、身口意(しんごうい)と言います。貪はむさぼり、瞋はいかり、癡はおろか、です。貪瞋癡それぞれに身口意があるのです。心の蔵にはこれらの悪業も入っています。なので、何かしらきっかけがあると悪い思いや考えも出てきてしまうのです。
これらは消し去ることはできません。
今から出来ることは、良い思いや考えや行いを心の蔵に貯めていくことです。
それを続けているといつか蔵の中で良い思いや考えが悪いものよりも多くなっていくでしょう。その時には、きっかけで出てくるものはきっと良い思い、考えであることでしょう。