世界一おそいタイム
朝礼ネタ2505 2021/01/01 スポーツ日本が初めてオリンピックに参加したのは1912年、スウェーデンの首都ストックホルムで開かれた第5回夏季オリンピックでした。
参加といっても、参加したのはたった2名。マラソンの金栗四三さんと短距離の三島弥彦さんです。
その2名のうち、マラソンの金栗さんが「世界一おそいタイム」を持っています。
20歳のだった金栗さんは当時の世界記録より27分も早いタイムを代表選考会で記録し、大きな期待を背負ってこのオリンピックに参加していました。
当日のストックホルムは非常に暑く気温は40度まで上がり、日陰でも30度を超えていたそうです。北の国のスウェーデンで誰もが予想をしない暑さに見舞われていました。
金栗さんはもちろんのこと、ほかの選手たちにとってもとてつもなく厳しいレースになっていました。この暑さに加えてコースも上り坂が長かったため、
なんと完走したのは参加68人のうち、34名と感想率がたったの50%しかありませんでした。
金栗さんはスタートから出遅れてしまい、最下位まで落ちていました。その後、急いでペースを上げたため、フラフラになってしましました。コースの途中で
ある一軒家を見つけた金栗さんはそこで水を貰おうと思い庭に入り、家の人に快方されましたが、そのまま意識を失ってしまいました。
目を覚ましたのは次の日でした。そのまま大会の係に棄権報告をしないまま宿舎に戻ってしまいました。
棄権報告もなく、行方不明として大会に扱われてしまった金栗さんは正式な記録には「ゴール」とも「棄権」とも書くことができず、ずっと走り続けていることになっていたのです。
1967年にストックホルムでオリンピック50周年の記念行事が行われることになりました。
当時の記録を調べていたオリンピック委員会の人が金栗さんの記録に気づき、金栗さんに是非ゴールをしてもらおうと計画をしました。
金栗さんは何も知らされないまま、招待され大会委員会の人に「あなたはまだゴールをしていません。正式にゴールをしませんか?」と誘いを受け、
金栗さんも了承しました。
ゴールテープを切った金栗さん、実にそのタイムは「54年8か月6日5時間32分20秒3」という記録でした。
その後金栗さんはマラソンの父といわれ、選手育成やあの箱根駅伝に大きくかかわっていきました。