丁稚奉公から始まった、本田宗一郎の技術屋人生
朝礼ネタ4746 2021/07/18 尊敬する人自己啓発本田宗一郎氏は高等小学校(現在の中学校に当たる)卒業後、
東京の自動車修理工場アート商会に就職します。しかしその実態は丁稚奉公でした。
丁稚奉公の小僧は社員ではありません。
給料はなく住み込みで三食と寝る場所だけが与えられ、
掃除や子守りなど主人の家庭の雑用が仕事で、修理工場の仕事などはさせてもらえません。
奉公を始めて1年ほどした頃、関東大震災が起こります。
修理で預かっている顧客の車を火災から守るため、社員総出で退避させました。
手が足らなくなったこの時に、宗一郎氏にも声がかかり、
氏は生まれて初めて公道で車を運転しました。
そして震災後、商会の主人が修理不可能だと言った被災自動車を、
氏が修理してしまったのを手始めに、修理工場の仕事で氏は大活躍をしました。
それまで工場内での車の移動程度の雑用しかしていなかった子守りの小僧が、
どうしてそれほどの仕事ができたのでしょうか。
子供を背負ったまま少年は、
先輩の仕事をいつも目を皿の様にして見詰めていたといいます。
氏自身もとにかく仕事を覚えたかったと、その頃を振り返って述懐しています。
その仕事への姿勢が関東大震災の緊急時に活きたのです。
もちろんそれでも本格的な技術があるわけではないのですが、
再び子守りをさせられるのが嫌で、氏は必死に修理の仕事に打ち込み、
ぶっつけ本番のその仕事の中で、しっかりした技術を身に付けていったのです。
この逸話は、仕事は人に与えられるものではなく、
技術も教えて貰うものではない、ということを示唆しています。
仕事とは自ら探し出すものであり、技術は盗むものである、
ということを再認識させられます。