父の日にはバラを

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  • 6月の第3週の日曜日は「父の日」です。それまでにも父の日は存在していましたが、一般的な知名度が低く、1966年アメリカの第36代大統領ジョンソンが父の日の存在を賞賛する告示を行ったことで広く知れ渡ったと言われています。このとき6月の第3日曜日を父の日と正式に定め、1972年に国の記念日になりました。

    日本で一般的な行事として知れ渡ったのは1980年代初頭くらいからでしょうか。デパートなどが、商品の販売促進の一環として父の日をイベント化し、宣伝をしたことが認知度を高めたと考えられています。

    現在も母の日と比べて一般的といえないこの父の日に贈るものをご存知でしょうか。母の日にはカーネーションを贈ることが一般的ですが、では父の日は何でしょう。それはバラの花です。バラの花の色は母の日のカーネーションと同様、健在の場合は赤を、亡くなっている場合は白を贈ると言われています。

    黄色を贈るのではないかと思われている方もおられるかもしれません。日本で1981年に設立された「日本ファーザーズ・デイ委員会」が主催している「父の日黄色いリボンキャンペーン」の存在があります。この中では、幸せや幸福の象徴とされる黄色を父の日のイメージカラーとしていますので、その印象の強さから、父の日には黄色いバラと印象付けられていると思います。

    実際にはバラであれば特に色は関係ないことが多く、バラを贈る贈られるということが、父の存在を改めて考えることに繋がると考えられますから、「父の日にはバラ」と、これだけを覚えておけばいいのではないでしょうか。

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    最初サンタクロースの服は赤くなかった

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  • 4世紀頃の東ローマ帝国・小アジアのミラの司教であったニコラオス(ニコラウス)の伝説が起源であると言われるサンタクロースですが、貧しい子どもたち、また良い子として過ごした子どもたちに対して、クリスマスプレゼントとして贈り物をしたという彼のエピソードが元になっていると言われ、その活動が普及していくことにより、人間としてのサンタクロースが具現化されていくことになったと言われています。

    当初は、老人であり、豊かな髭を蓄え、子どもたちのプレゼントを入れるための白い大きな袋を担いでいるという以外に、外見的な特徴はなかったそうです。

    そして、1931年になり、米国コカ・コーラの広告にサンタクロースが初めて採用されることとなり、そのときに、コカ・コーラ社のコーポレートカラーである「赤」と「白」を基調としたコスチュームをサンタクロースに着せたことにより、現代の赤い服を着て白ひげを蓄えた笑顔のサンタクロースのイメージが世界中に広まっていったと言われています。

    それだけコカ・コーラが全世界的に認知されていたということも衝撃的ではありますが、おかげで今ではサンタクロースのイメージが統一されたこともあり、ある意味では良かったのかと思わされました。

    もし、好きな色の服でサンタクロースを装っていたならば、現代のサンタクロースは大変困らされることになったと思うからです。

    家に帰ってから、町に出てから、今年は何色の服を着ようかと思い悩むサンタクロースの姿はできれば目にしたくないものだからです。
    そして、今年も赤い服をまとったサンタクロースが登場するというわけです。

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    「信士」より「居士」が良い

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  • 父の13回忌が終わりました。
    父が亡くなった時の事を思い出します。

    長男である兄がお寺に戒名をいただきに行きました。戒名の申請用紙に必要事項を書き込み、提出しました。いただいた戒名は「○○○○信士」でした。
    ちなみに、父は代用教員から教員となり40年余の長きにわたり地元の中学校の先生をしており、教頭にもなれず(ならず)平教員でした。
    しかし、役職が無く、常に生徒と触れ合う立ち位置だった為、送り出した卒業生の数は多かったと思います。
    さらに、教育熱心だった為、人望も厚く、「先生のお子さん」という居心地のいい時代を過ごすことが出来ました。

    告別式が終わり、落ち着いた頃、父の姉が何気なくこう言ったのです。
    「居士欲しかっただろうにね。」と。信士より居士の方が格上という認識はありましたが、どちらでも構わないといった程度の認識でした。
    私は思わず弁解する口調で言いました。「親父は教頭にもならず、一生一教員として生きた人だから、名誉を欲するとは思えません。」
    すると、父の姉が何も知らない癖にと言わんばかりに上から目線で、「好き好んで”平”だったわけじゃないでしょう?教頭になりたかったけどなれなかったんじゃないの?」
    と、やり返してきました。

    その時まで、先生の中でも、教頭・校長を目指して生徒の方を向いていない先生が多い中、父は名誉に目もくれず、ひたすら生徒の方を向いていたその姿勢に誇りを尊敬の念を禁じえませんでした。
    父の姉の話に、そうかかもしれないと思いました。教頭になれずやむを得ず生徒の方を向いていて、亡くなった時、居士をもらえなかった無念を思っている父の姿が脳裏をかすめ、
    聖人君子だと思っていた父が何と欲望が満たされずにもがいている。そう思うと、人間的な一面を垣間見て亡くなった父がさらに好きになりました。

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    住まいに感謝して

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  • 住宅の解体工事に携わっていて感じる事があります。
    住んでいた人がいなくなった住宅の玄関のかぎを開けて中に入ります。

    家財道具が全て片づけられ掃除機をかけたであろうと思われるちり一つ落ちてない部屋、雑巾がけをしたであろうぴかぴかに輝いている床。住まわれていた方の住まいへの感謝の思いが伝わってきます。

    かと思うと、ちょっと前まで生活していたのではないかと思わせる足の踏み場の無い部屋。箪笥には衣類が詰まり、冷蔵庫には使いかけの調味料が散乱し、あらゆる収納スペースにものがびっしり。挙句は家族のアルバム・遺影まで置き去りにされ、不本意な引っ越しを余儀なくされたであろう。

    住まいも泣いています。住まわれていた方の無念を思います。「こんなはずではなかった。」「幸せな日々を送っていたのに」「一生懸命生きてきたのに」苦しい思いも同時に感じ取れます。

    何年か、若しくは何十年か、家族とともに過ごしたであろう住まいが今、無に帰そうとしています。子供たちの食卓を囲む歓声が聞こえてきます。お母さんのそれを諌める甲高い声が聞こえてきます。仕事で疲れた体を家族のだんらんの中で癒され明日への英気を養ってきたお父さんの姿が見えます。
    諸々の思い・声が重機のエンジン音の中にかき消されていきます。

    様々な人生模様を垣間見る思いです。自分は「数々の思い出をありがとう。」と言って去りたい。
    でも、「誰しもがそう思うのに、それが出来なかった無念」 それを感じ取れる自分自身でありたいと思います。

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    勉強の極意は理解をすること

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  • どんな分野の勉強もそうですが、何事も理解をしなければ学ぶことは出来ません。
    テストでいい点を取るためにその場しのぎの勉強をしていれば応用が利かなくなり、テストだけが出来る人になってしまいます。
    そのまま世の中に出てしまえば、臨機応変に対応が出来ずに子どもの人生を破滅させてしまう事になっていきます。
    そこまで大げさなと感じるかもしれませんが、それほどに人生を左右されてしまう可能性はあります。
    子どもの可能性は無限大です。
    活かすも殺すも大人次第なのです。

    私たちがしていかなければならないのは子どもにその分野の意味を理解させ、考えさせることが重要なのです。
    そのことにより、自分で理解を深めるので応用が利き、今後社会に出たときには大きく羽ばたいていけるはずです。

    専門的な分野にこだわることはありません。
    国語、数学、理科、社会、英語など学校で習う分野で興味を持ったものを伸ばしていくような教育が必要だと思います。
    1つの分野を極めれば全てにつながるので、発展をさて応用をすることが出来るのです。
    特別なことは必要ありません。
    興味を持たせて理解をさせればいいのです。

    大人が指導をすれば子どもは言うことを聞いて思い通りに動かす時代は終わりました。
    子どもが自発的に学び、理解をする手助けを行うことが今の教育には必要だと思います。
    しかし、古いやり方を否定するわけではありません。
    古いやり方は指導するうえで必要かと思います。
    ですが、子どもへ大人が出来る最大の援助をすることによって、やがて大きな人へ成長をしていくのです。
    それが大人である私たちの喜びではないのでしょうか。

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    読み聞かせというツール

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  • 絵本の読み聞かせは子育てをしている人、また子供に接する機会が多い人は経験しているのではと思います。

    その絵本の読み聞かせですが、幼児期の人格形成に大きな役割を担っていると言われおり、今や、産まれて間もない新生児や胎児に読み聞かせをすることも有効なのだとか。

    フレデリック大王の実験をご存知でしょうか。
    触れ合いをせずに赤ちゃんを育てるという実験が、修道院でなされたのです。
    赤ちゃんが修道士を見ても、目を合わせない。
    笑いかけても、笑い返さない。
    結果は、実験が終わる前に赤ちゃんが死亡してしまったそうです。

    子供にせがまれて絵本を読むとき、私たちはいつもではしないような、オーバーアクションであったり、声に抑揚をつけてみたり、絵本の中の登場人物になってみたりして、子供が楽しんでくれるよう読んでいませんか。

    それは、直接的なスキンシップはありませんが、子供たちとの触れ合いになっていると思います。
    自分の声色で驚いたり笑ったり、その子供を見て読み聞かせている大人もまた笑顔になったり、わざと怖い顔になってみたりというコミュニケーションが生まれます。

    大人になってからも、是非、機会があれば読み聞かせてもらって下さい。
    小学校や幼稚園の行事で、何度か絵本の朗読をしてもらったことがあるのですが、大人でもやはり楽しいのです。
    安心して感情移入ができるというか、心地よいのです。

    そして普段では見落としがちなことや、忘れていたことなどを「あ、そうだった」と思い出させてくれるのです。

    身近に子供がいない人は、なかなか絵本に触れる機会もないかもしれません。
    もし本を手に取る機会がありましたら、ついでにパッケージで選んでもタイトルで選んでもなんでもいいので、一冊手に取って読んでみてください。
    きっと初心に返れると思います。

    何が大事なことなのかを見極める力を、過去にも未来にも必要とされる場面は沢山あります。
    シンプルにそして、初心に返る、大事なことではないかと思います。
    その一つのツールとして、またコミュニケーションのツールとしても、絵本の読み聞かせを活用していくのも手だなと思っています。

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    本当は怖いグリム童話について

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  • いわゆる「おとぎ話」というものは、親や大人によって子どもの眠る前に読み聞かせてあげるための虚構の世界を描いた物語のことを指していることが一般的となっています。だからこそ、子供の興味を引くような、またフィクションの虚構の世界観に満ち溢れたストーリーが展開されることも至極当然だと思われています。

    ところが、じつはおとぎ話の代表格であるグリム童話であっても、原作とは違った結末になるよう、話が書き換えられていたのだそうです。
    グリム童話とはヤーコプ・ルートヴィヒ・カルル・グリムとヴィルヘルム・カール・グリムからなるグリム兄弟によって編集された童話集ですが、たとえば、有名なところで次のような原作とその後の書き換えによる違いがあると言われています。

    赤ずきんちゃんは、狼に食べられてしまったままで、救出されることはなかったとされていますし、シンデレラの話では、足のサイズがガラスの靴に合わなかった継母たちは、自分がお姫様だと主張できなかったと落ち着くことになりますが、原作のなかでは、継母らは、自らの足の指先を切断してまでも、血をにじませながらも、ガラスの靴を履いてみせようとしたといった話になっているのだそうです。

    また、それだけでなく、白雪姫は毒リンゴを食べて生き返ることはなかったとされていますし、そもそも白雪姫に嫉妬して彼女を亡き者にしてしまうよう命じたのは、実の母親であったとされています。

    これらは子どもが耳にすることで幼い記憶のなかに残忍性のようなものを芽生えさせる害悪となる可能性があるとして意図的に書き換えられたとされていますが、現代社会での猟奇的な事件を目の当たりにしていると、一概にはそうとも言えないのではないかと言う気がしてしまうのもまた事実です。

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    私は今、嫁をもっと大切にしようと思っています。

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  • 「袖振り合うも多生の縁」という諺があります。
    この中の「多生」を、今まで「多少」だと私は思っていました。だから衣服の袖がほんの少し触れあうだけ事でも、縁は縁だから、という程度に解釈していました。
    しかしこれは大きな間違いでした。

    多生というのは仏教における言葉です。
    仏教では、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道があり、人はその生き方によって六道に生まれ変わる輪廻転生を繰り返すとされます。
    永遠ともいえるこの輪廻の中で、私たちは今、人間道の世界に生まれ、身の回りの人達と出会っています。その出会いはだから無いに等しい程の稀有な出来事なのです。

    難解な仏教の教えを十分に理解し得ない私は、拙い今様の解釈を私なりにしてみました。
    現在の世界に生きる人の数約70億人ですが、そのほとんど大部分の人達とは一生出会う事も無く私は死んでゆきます。

    そして、過去人類が誕生してから現在までに生きてきた人の数はどれぐらいでしょうか。
    さらにはこれから将来にわたって、人類が絶滅するまでに生まれ死んでゆく人な数は、と考えると、その数は想像もつかない程の天文学的数字になるのでしょう。

    そんな膨大な数の人の中から、私は今までいく人かの人と出会ってきました。
    袖振り合うも多生の縁の本来の意味で考えるならば、その人達の出会いは奇跡としか考えようがありません。欲して得られるものでは決してないのです。

    そんな奇跡を今まで私は何と粗略に扱ってきたのでしょうか。
    これではいけません。私は今思っています。嫁をもっと大切にしようと。

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    犬を2匹飼っていると、平等に可愛がる大切さがわかります

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  • 我が家には室内で飼う小型犬が2匹います。4歳と2歳ですが、4歳の犬は5か月から我が家にいて、2歳の犬は2か月から我が家にいます。4歳の犬は家族みんなで可愛がり、しつけもしました。今でもおやつなどは『待て!』というと『よし!』というまでずっと待っています。そして『お手』など、色々教えたことはしっかりできます。

    そうしているうちに2匹目が欲しくなったわけで、2匹目の子犬が来た時は、初めの犬は大人になっていたので、皆子犬ばかり可愛がっていました。その時初めの犬の顔を見ると、可愛がられる子犬を羨ましそうに見ているように見えました。ここはまずいと思い、両方とも可愛がるようにしました。

    しかし、2か月から飼いはじめた子犬は甘えん坊で、大人の犬や、家族にもすぐじゃれつき、どちらかというと子犬中心にどうしてもなってしまいました。大人の犬は、じっと我慢して、可愛がられる子犬を見ていました。

    そして子犬が1歳半を迎えた頃、性格が変わり始めました。人間でいう思春期あたりです。大人の犬を可愛がると、嫉妬して怒りだし、大人の犬に噛みつくようになったのです。大人の犬は、子犬だった犬が向かって来ても、あまり相手にせず、争いごとを避けるように場所を移動します。可愛がり過ぎた子犬は飼い主たちは、自分のものだと思っているようでした。

    この光景を見ていると、犬も人間同様、嫉妬する生き物だと分かりました。人間よりは我慢する程度は低いと思います。それでも我慢する犬もいれば、感情をむき出しにする犬もいるわけです。

    家庭内での子供への接し方や、会社内での同僚や部下への接し方も平等さが問われるものだと痛感しました。犬を参考にする事は良くない事かもしれませんが、犬を見て思い知らされた感がありました。この一件以来、家庭内、職場での接し方に最新の注意を払うようになりました。

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    子供監督

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  • 先日家族と公園に行った時の話です。

    私は普段残業が多く、毎日子供が寝てから帰宅する日々を送っています。
    だからこそ、休みの日は出来るだけ家族と沢山出かけて楽しい時間を過ごしたいと考えています。

    先日も朝から妻にお弁当を作ってもらい、少し遠くの公園へ車で出かけました。
    子供は車に乗る前からはしゃいでいてこちらもテンションが上がっていました。

    公園に着くと、子供はすぐに走り出します。
    私も急いで後を着いていくのですが、恥ずかしながら子供が遊具に着くまでに息が上がる事もあります。
    子供はそんなのお構いなしで、行きたい遊具に次々と走って行きます。

    パパーとせかされ、次は広場でボール遊びをしたいそうでにこにこで待っていました。
    平日は朝しか顔を合わせることができない分、休みはパパと沢山呼んでくれて疲れの前に顔がほころびます。

    ですが、もう私は若くないので疲れるのは疲れます。
    休憩を申し出てもヤダの一言で吹き飛ばされてしまいます。
    ボールはとんでもない方向に行き、慌てて取りに行けば子供は喜んでわざと変な方に投げます。
    何往復したことか。

    休みの度に思いますが、子供との休みはある種の合宿だと。
    自身の年齢と普段の運動不足が重りになり、子供の支持であちらこちら奔走する。
    その上休憩もままならない。まさに合宿です。

    小さな監督は私に体当たりでタックルして、小さな手で大きなお腹を押しまくります。
    小さな監督のおかげで大きなお腹も少しは小さくなるよう願いながら、私は次の休みも楽しみにしています。

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    嫁に食わせていいのかどうか、秋茄子のお話

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  • いわゆる「秋茄子は嫁に食わすな」といったことわざは広く一般的で、知られているところだとは思いますが、これには諸説があり、そのうちの正反対を言っている解説についてお話したいと思います。

    まず、秋茄子というものは、身体を冷やす効果があるためであるとする説です。

    この説によると、茄子という野菜自体が夏野菜の一種であるため、夏の暑さを乗り切るため身体に対して冷却効果があるとされていることに関係があります。

    すなわち、嫁である女性が、妊娠して出産するといった状況にあったときに、妊婦さんは身体を温めなければならないし、妊娠するのにも身体の冷えがよくないといったことから、なるべく元気な子宝に恵まれ、子孫繁栄を考えたときに、理にかなっているとするお話です。

    一方で、真逆の説としては、秋茄子というのは、その旬の時期である夏が終わりかけて、生育環境が厳しい中で育っており、水分が適度に抜けて甘みが増したものが多くなるため、味が絶品であり、大変美味しくなるので、そんなに垂涎の秋茄子を、他人である嫁に食べさせるなんて、もったいないといった説です。

    どちらかといえば、この説は、嫁姑問題でバトルが勃発しているようなご家庭を想定しているようにも思えなくありません。

    いずれにしても、ことわざや昔からの慣習には全く根拠のないものは存在しないように思いますが、美味しいものを適度に適量いただくのであれば、そこまで神経質にならなくても良いのではないでしょうか。

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    当初アンパンマンはアンパンを配る普通のおっさんだった

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  • やなせたかしさん原作のアンパンマンは、今なお日本中の子どもたちに支持されており、アニメーションキャラクターとして絶大な人気を誇っています。

    そんなアンパンマンですが、漫画として始まったときには、ただのおっさんだったことはマニアの間では有名な話です。

    初代アンパンマンの風貌は、現在のアンパンマンとは全く違っていて、コスチュームを身にまとった人間の姿をしていました。

    また、今のアンパンマンが自分の顔であるアンパンを振る舞うのとは違い、おっさんアンパンマンは、貧困や戦火によって傷ついた子どもたちのために、普通にアンパンを配っていたのでした。

    ところが、ダサいとか、小汚いだとかヒーローらしからぬ容姿に対して、子どもたちから苦言を呈されただけでなく、非難されてしまったことにより、変貌を遂げることとなるのです。

    そして、今では私たちの間でも、おなじみとなっている顔がアンパンで出来ているアンパンマンが生まれてきました。

    ジャムおじさんによって焼き上げるアンパンで出来た顔を持つアンパンマンは、自分の顔を提供することで市民を助け、また、顔が汚れることによって力を発揮することができなくなるといった設定も、今のアンパンマンになってから出来たものでした。

    今では誰もが知る人気のヒーローとなったアンパンマンですが、もしも、初代のまま、ただの人間のおっさんが演じていれば、今ほど長きに渡って人気を維持することもできなかったでしょうし、これほどまでに魅力的なキャラクターとしての地位を築くをことはなかったと思います。

    機転を利かせることで脈々と息づいていく物事が少なくないということを、このアンパンマンの話から学ぶべきではないかと思いました。

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    家族が増えること、そして笑顔について

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  • 皆さんは今、何人家族ですか。我が家は3人家族です。そして、近々4人家族になる予定です。楽しみであると同時に、今もギリギリの生活をしている我が家ですので、不安もあります。

    楽しみでありながら、不安も抱えている日々の中で、先日、出産した友人の家に赤ちゃんを見に行きました。まだ、非常に小さい首の座っていない赤ちゃんでした。うちの子もこんな小さいときがあったなぁ、いつの間にか大きく成長しているものなんだなぁ、と改めて思いました。

    友人夫妻はとても大事そうに、非常に優しい目で赤ちゃんを見ていました。かわいくてしょうがないんでしょうね。その光景が私にはとてもキラキラ輝いて見えました。そして、やっぱり家族が増えるということは幸せなことなんだなぁ、と感じました。

    赤ちゃんという存在が、ちょっと声を出したり、身動きしたりするだけで、人を笑顔にしてしまうのです。大人ではできないことですね。存在自体が癒しになるんです。

    大人が人を笑顔にするには、赤ちゃんと違って努力が必要です。ふと自然に行う行動で笑っていただけることはほとんど無いですから。

    お客様に笑顔になってもらうには努力が大事ということです。どういう行動をとったら良いのか、相手が求めていることは何なのかを見極めなければなりません。相手の立場になったり、相手の言葉や態度、表情から敏感に察知してください。そして、行動あるのみです。私も一人でも多くのお客様に笑顔になってもらえるよう努力していきたいと思います。

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    決断力のいる衣替え

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  • 四季のある日本では季節の変わり目には、着る服を変える衣替えがあります。冬から春、そして夏から秋、冬と季節に応じた服が必要です。厚着から薄着に変える時は体が、薄着に馴染んでいないため初めのうちは寒さを我慢する必要があります。逆に薄着から厚着に変える時も同様で、厚着に馴染んでいないため暑さを我慢しなければなりません。

    衣替えでいつも困るのは長袖と半袖の切り替えです。毎回のように、洋服ダンスは一杯になります。まだ寒いかもしれないとか、暑いかもしれないと考え、両方をタンスに入れています。しかし大概、去って行く季節の服は着ずに終わり、再びタンスの中の衣替えをしなくてはなりません。

    衣替えは予想以上に決断力が必要です。単純に考えれば、長袖か半袖かどちらかに決めればいいだけで、不都合なら状況に応じて引っ張り出してくればいいだけです。別に捨てるわけではないのです。それなのに、いつも迷ってしまいます。

    この決断力は仕事上でも同じです。利益は出ないが売り上げのあがる仕事を、将来もしかしたら利益が出るかもしれないと言ってズルズル引っ張るのか、思い切ってスパッと手を引くのかのようなものです。私生活でも、仕事でも仮定の話ばかりでは物事が前に進みません。現実を見据えて、今後の方向性を決めるのが決断力です。決断が失敗であれば修正すればいいし、場合によっては撤回してもいいと思います。

    今、成長している会社はこの決断力がいい会社だと思います。私も衣替えで決断できないようではダメですが、仕事に置いては決断力を持って邁進したいと思います。

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    自宅の食事が外食と変わらないくらい美味しい事

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  • 私の子供時代や青年時代は、作っていた母親には悪いですが、家庭内の食事は特に美味しいとは言えず、外食が美味しいという現実でした。特にカレーやラーメン、チャーハン、酢豚、丼物などは、味の差は歴然でした。月に1回ほど行く外食が楽しみで仕方なかった頃でした。

    月日は流れ、今の時代は、外食も、量販店の惣菜も、家庭で作る料理も味はほとんど変わらないと思います。逆に家庭の味の方が、自分の好みに合わせられるので美味しいという場合は多々あります。おかげで、外食の回数はめっきり減りました。

    この味について、食品メーカーの人に聞いたことがあります。今の技術では、行列のできる店とか、名門の味は全て調味料で再現できるそうです。後は家庭で素材の吟味と素材の下ごしらえや、加熱工程などを、繁盛店と同じようにできれば、あとは、配合された調味料(タレ)などで、同じような美味しい料理が出来るとのことでした。その素材というのも、特別高級な必要はなく、鮮度もバリバリにいいものの必要はないそうです。

    また即席めんがメインの別のメーカーの人の話では、スープは調味料の配合でそっくりな味が出来るそうで、いまだ到達できないのが麺だけだと言っていました。

    先日我が家の娘が海外旅行から帰って来ました。海外の即席めんや、日本でいう簡単料理の食品を買っていました。早速食べるとどれも食べれるような代物ではありませんでした。はっきり言ってまずいのです。この時、日本のモノ作りは食品でも世界のトップを走っていると思いました。

    経済で若干遅れをとっている感のある日本ですが、現実を見るとまだまだ日本のレベルは高いと思いました。やっぱり自分に自信を持つことが大事だと思いました。私も自分の仕事に誇りと自信を持ち、邁進していきたいと思います。

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    御言葉に語られた朝

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  • 特に、寒い日ですと朝にベッドから出たくないという方が大勢いらっしゃると思います。私の場合は、寒さに関係なく、出来るだけ誰よりも寝たいという気持ちがあります。

    その寝たいという気持ちは、仕事で疲れて、最近寝てないなとか、残業が続いていて身体を休ませなきゃしんどいなとかあります。または仕事帰りに先輩社員か友達と夜遅くまで飲みに行き、帰りが遅くなった、またちゃんと睡眠をとるタイミングを逃してしまった場合もあるかもしれません。

    他の事例を話すなら、趣味があり、夜遅くまで、または深夜が更けるまでその趣味に没頭し、せっかくの休日を朝夜逆転をするような使い方に時間を費やしてしまったという方も中にはいるかもしれませんね。

    その中には以前まで、私・僕もそうだったかもしれないとか、「あいつだな」とか知り合いにそういったことをしていて思い当たる方もいるかもしれません。

    私がこの場を借りて共有したいことは、常にある寝たい寝たいとか、疲れた疲れたというネガティブ表現をなくすことで、人生がより豊かになるということです。実際に睡眠をあまりとっていなく、同じ人間なので寝たい気持ちも分かりますが、その気持ちを抑えて、「よし仕事頑張るぞ」とか「今日も良い一日にするぞ」という気持ちを思い切って持った方が家族・友達・上司との人間関係がより良くなり、ここにいる先輩社員、同期も仕事効率が上がり、結果的に早く仕事が終わり休憩する時間も伸びると思います。その「よし頑張るぞ」っていう強い信念で、以前まで嫌々飲みに行ってた所もあったのに、今では関係をより良くしたいという気持ちの方が強いので、楽しく話しながら飲むことが出来ると思います。

    以前内気で元気良く話す事も出来なかった私は、現在は誰とでも会話をする事を楽しみ、働くことに生きがいを感じるというのは人との関係性を重要視し始めたからです。一般の人はそれが大事だと思っても日本の恥の文化や建前を奮い立てなきゃいけないと勘違いしている文化でなかなか真理に気付けないと思います。いろんな不安・心配事・勘違い、そういったストレスでモチベーションに影響されてやる気が出なく常に眠たい人っていると思います。それが悪いといっているのではなく、真の愛について知ることで何があっても、最悪な状況に陥ったとしても、それがあなたたちを助けると思います。

    学生時代、カナダに一年間語学留学に行っている時に、英語学習のためだと思い毎週日曜日教会に行っていました。北米大陸はキリスト教人口が多く、留学先のカルガリー市内には10以上の教会がありました。それで、私は英語が出来るので聞いて理解できます。そしたら牧師さんの言葉に感動しました。

    「神様最強!完璧なお方!そしてあなた達、人間は彼の子供です!最強な方の子供は良い者です!あなたの罪は許されました!今日も頑張りましょう!」

    そうです今日も一日お仕事頑張りましょう!

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    祖父母と協力して行う子育てについて

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  •  現代日本は核家族はおろか単身世帯が当たり前になってきていますが、そんな状況だからこそ家族同士の結び付きはとても大事ですよね。たとえば最近よく耳にする「ラン活」は、小学校に入学する子どもや孫にランドセルのプレゼントをする活動全般を指しますが、こういった家族間でのコミュニケーションが大切なのはいうまでもないことでしょう。

     特に夫婦共働きが増加してきているため、夫婦の祖父母の子育てにおける存在感は強くなってきています。孫と一緒に出かける祖父母は街で普通によく見かけますし、夫婦が働いている間に子どもを預かるケースも少なくありません。今や子育ての一翼を担うのが祖父母であり、これからもそれは変わらないはずですよね。

     ただ、祖父母の子育て方針が夫婦と若干ズレていたり、元気過ぎるに孫に祖父母が体力的に消耗させられたりなど、祖父母の子育てに問題が皆無なわけではありません。もしも子育ての方針をめぐって祖父母と夫婦が険悪になってしまったら子どもは肩身が狭いですし、そうならないように気をつけないといけないです。

     家族間のコミュニケーションで大事なのは、誰が主体になっているかです。子育ての場合は、無論子どもが主体ですよね。このように考えていけば、潤滑な子育てができるのではないでしょうか?夫婦ともに仕事をしなければいけない世帯では、子育てをいかに乗り切るかが家族の向き合うべきテーマです。仕事に熱を入れることは大切ですが、子育てが疎かにならないよう祖父母とも協力しないといけないですよね。

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    娘の彼氏が家に話に来た事

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  • 社会人として、仕事を続ける中で家族は重要な役割をしています。家庭が安泰なら仕事に集中できます。逆に家庭に不協和音があると仕事の時も考えたりします。夫婦間、子供の問題やその他色々あります。

    そんな家庭の出発点が結婚です。結婚して家庭が生まれます。そんな私の家に先日、娘の彼氏がやって来ました。話をしたいという事でしたので、うすうす感じていました。私がかつて妻を嫁にもらう話をするために、妻の実家に行った時のことを思い出しました。相手の実家に話に行った経験は過去にもありましたが、この緊張感は半端ではありませんでした。

    自分なりに、こう言われたらこう言おうなどと、話を想定し、日にちを決めた日から、熟睡できない毎日が続きました。おそらく彼もそんな心境でしょう。そして彼がやって来ました。話を聞く側の私はとても冷静でした。逆に彼はスーツ姿で訪れ、ガチガチの緊張で、言葉も途切れ途切れでした。この時私が感じたのは、父親の心境でした。娘が幼い頃は、こんな日が来てほしくないと思っていましたが、この時はこの彼が息子になるのか?と何故か余裕でした。やがて話は終わり、私が緊張を解いてやると、ほっとした様子で笑顔が出ていました。

    彼は初めての出来事です。私は自分が経験したことであり、今度は受け入れる側です。過去を振り返って、こうも心境が違うものかと思いました。全く緊張もせず、緊張しきった彼、を受け入れることが出来ました。

    良く考えると仕事の中でも同じような事があります。営業にしろ、商談にしろ、新人の頃は毎回緊張します。しかし年数と経験を積み、度胸が据わり、頭も柔軟になります。こういえばこうだとか言うのは考えず、自分のやり方ででき始めます。年の功と言ってしまえばそれまでですが、やっぱり年数と経験はモノをいいます。自分のベテランの部類ですが、ベテランはベテランならではの味を仕事でも出していきたいと思います。

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    家事をしてくれる家族に感謝しよう

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  • ここのところ「家事」の重要性についてメディアやニュースで報じられることが多くなりましたよね。

    家事は、生活をしていくうえで誰かが必ず行わなければいけないものです。一人暮らしをしている人は別ですが、そうでなければこうして仕事をしている間に、家族の誰かが家事をしてくれているということが多いでしょう。仕事をしている間はどうしてもその事実を失念してしまいがちですが、家で家事をしてくれる家族がいるからこそ仕事に集中できるのは否定しようのない事実です。

    また、代表的な家事である「料理」「洗濯」「掃除」以外の名もなき家事についても、ここのところよくクローズアップされています。名もなき家事も家でやらなければいけないことに含まれていて、それが負担になっているという内容です。

    家事は経済活動ではありませんが、だからといって軽視してよいものではありませんよね。配偶者や親のように家で家事をしてくれている人には、最大限感謝しないといけないです。もしもそれを忘れて「仕事をしているほうが偉い」と勘違いしてしまったら、家庭内不和になりかねません。ですから、もしも仕事が上手くいったら、それは家で家事をしている人のお陰だと思って感謝するようにしましょう。

    仕事と家事で直接的なつながりはないかもしれませんが、だからといってまったくの無関係というわけでもありません。家で家事をしてくれている人がいるから仕事ができる、そのことを胸にとどめ、家族への感謝の気持ちを常に持ち続けることが大事です。

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    多頭飼いすると犬も嫉妬する

  • 追加
  • 我が家には2匹のシーズーがいます。両方ともオスで親子です。父親3歳、子犬1歳です。子犬は小さい頃は、親犬の真似ばかりし、親犬に飛びかかっては、叱られるように吠えられていました。そんな子犬が成長し1歳をこえる辺りから嫉妬が始まりました。

    親犬を抱き上げたり、抱擁したりすると必ず子犬が寄って来て、自分にもやってくれと催促しだします。おやつも親犬に先に与えると催促するように寄って来ます。この辺は普通だと思いますが、親犬が室内でウンコをもよおした時、私が親犬だけ連れて外に出て帰って来た時に起こりました。

    子犬が出入り口で待ち構えていました。帰って来た親犬の方をじっと見つめています。そして親犬が室内に入ると、本気で吠えて怒り飛び掛かり噛みつき始めました。さすがに私が叱りましたが、同じことは再び起こりました。

    娘が親犬だけ車にのせてちょこっと外出した時です。室内の玄関で子犬はじっと伏せをして待っていました。やがて帰って来ると、親犬に向かって前回と同じように襲い掛かりました。私は完全に子犬が嫉妬していることがわかりました。それも飼い主には怒らず、親犬に怒っていました。このころから、親犬は子犬に対し我慢をするような光景を頻繁に見るようになりました。

    人間社会のいじめのようにも見えました。兄弟関係でもこのような事はありますが、兄弟に怒ることはあまりせず、一人ひねくれたりします。犬も人間も同じで、飼い主に一番に可愛がられたいと思うようです。人間社会の親によく見てもらいたい、先生によく見てもらいたい、上司や社長に良く見られたいなどの心境です。

    犬のこのような心理状態を見ると、理性の高い人間社会では、いかに人を平等に扱い、評価していくことが大事なのかがよくわかります。人間の場合は言いたくても言えない、怒りたくても怒れないなどの我慢をすることが多く、これが多くのストレスにつながります。やっぱりコミュニケーションは重要な事だと改めて感じました。

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